ディミトリが自室として割り当てられたのは六畳ほどの部屋だ。 元々はタダヤスの父親が使っていた部屋らしい。勉強机などがそのまま残されていた。 高校を卒業すると同時に大学の寮に入ったので、年に数回帰ってくる時以外は使わなくなったのだそうだ。「この部屋に有るものは全部使って良いわよ~」 祖母はそう言っていた。 もっとも、大した飾り気の無い部屋だった。空気を入れ替える時以外は、誰も入らなかったのであろう。 少し埃が籠もっているような気がする。 壁には昔の野球やアイドルのポスターなどが張られていた。 本棚には教科書や参考書があり、漫画本も少しだけ置かれていた。 タダヤスの元いた部屋も似たような感じだった。さすがは親子だなとディミトリは思った。 もっとも、タダヤスの部屋のポスターは、アニメのキャラクターだらけだった。「ネットが出来る環境が必要なんだがな……」 部屋を見回してみるとパソコンが無い事に気がついた。大学の寮に入る時に持っていたのだそうだ。 色々と調べてみるとインターネットに繋ぐための設備は無かった。「折角、ノートパソコンが有るのにな……」 タダヤスの祖父は物を買うとそこで満足してしまう質だったようだ。 大して使っていなかったらしい。 そこで、祖母に頼み込んで自分用のスマフォを購入し、LTE接続で使えるようにしてもらった。 手短な所でネット環境が整ったので、ディミトリは早速自分を検索してみた。『NOT FOUND』 何も引っ掛からない。 普通ならフェイスブックとかのSNSに一つくらい掛かりそうだが、見事に無いのだ。「う~ん……」 思いつくキーワードは色々試すが何も出てこなかった。小学校や中学校の名簿を調べてみたが無かった。 まるでこの世にディミトリが存在しなかったような感じさえある。「………………」 もっとも、秘匿性の高い作戦に従事することが多かったので、目立ったものは何も出ては来ないと思っていた。 暫く探し回っていたディミトリは違和感を覚えた。 だが、自分が関与した作戦は実際にネットに掲載されているのを見つけている。 もちろん、部隊名や作戦名は出てこないが、新聞記事などから推測出来るのだ。「俺の妄想では無いのは確かなんだがな……」 記事の内容と自分の記憶に齟齬が余りないことから実際に事件が有ったのは確か
(善人には向かないけどな……) 傭兵とは雇い主の命令には逆らわない。彼らが対象を殺せというのなら、躊躇わずに引き金を引いていた。 正規軍の兵士だった時も同じ。ディミトリは良心を、家を出る時に捨ててきたのだ。(漫画喫茶……) 不意にキーワードが頭に浮かんできた。タダヤスだった時の記憶が繋がったのであろう。 最初は何の事なのか不明だったが、目の前のノートパソコンを操作して理解できた。(漫画喫茶とはコミックを読む所でネットも出来るのか……) 全くの匿名では無いが、ある程度なら偽装が可能かも知れない。 彼が渡り歩いた国々にも似たような施設はあった。 ディミトリは早速自分の住む街にある漫画喫茶を調べてみた。駅前に数軒ほど有るらしい。(当然ながら金が必要だな……) 今、ディミトリのサイフには小銭が少々入っているだけだ。当然、活動資金が足りない。 この先、海外への渡航が必要になると、中学生が持っている金では足りないのは明らかだ。 タダヤスの貯金が有るらしいが、引き出すためには暗証番号が必要だった。 勿論のこと知らない。突発的に思い出すかも知れないが当てにならない。(なんてこった……) どうも、タダヤスの記憶は肝心な部分で役立たずのようだ。(まあ、金を手に入れる方法を考えるか……) それは、この国で生き抜く重要なポイントだ。(その前に…… このヒョロヒョロの身体をどうにかしないと……) パソコンを操作する手を見ながら考え込んだ。 こんなガリガリな身体では話にならない。戦闘になった時に指先だけで叩きのめされる。 そこで体力と筋力を付けるために、ランニングを始めているがそれだけでは不足なのは明らかだ。 片手でパソコンを操作しながら、開いている片手で水を入れたペットボトルの上下トレーニングを行う。 本当はダンベルが欲しかったが、直ぐには手に入らないのでペットボトルで代用していた。 何しろ筋肉がゼロに等しいので、これだけでも結構な運動になると考えていた。(なんで見ず知らずの国でこんな事をやっているっ!) 苦笑しながら今後のことなどを考えながらトレーニングを続けた。(そういえば故郷の家でも同じことをやっていたな……) 早く一人前になりたくて金のかからないペットボトルでの筋肉強化トレーニングを続けていた。 そんな彼が気に入らないの
再び病院。 翌日、ディミトリが目を覚ますと、再び病院に入れられているのに気がついた。 以前、事故の時に入院していた大川病院だ。(すっかり見慣れた天井になっちまったな……) 見慣れたと言っても、病院の天井は何処も一緒なのだ。白い塗料と飾り気のない蛍光灯だ。 部屋中に漂う消毒液の匂い。(中々、手酷い頭痛だったな……) ディミトリは手酷い頭痛で気を失ってしまったのだった。世界中がグルグル回ってたのを覚えている。 部屋での物音に気がついた祖母が、心配になって様子を見に来て見つけたそうだ。 事故の後で長いこと意識不明状態だったので心配だったのだろう。 気を失っている間に血液検査やら、脳のCTスキャンやらの検査が行われたらしい。 彼の担当の医師は鏑木医師だ。 外科が専門だが事故当時から親身になって診てくれている。 今回も前回に続いて診てくれたようだ。傍らには例の美人看護師もいる。 ディミトリは彼女に会えて少し嬉しかったようだ。「それで、タダヤス君は自分の事を思い出せて来たかね?」「いいえ、昔のことは良くは思い出せません……」「そうか、まあ…… 焦らずにね……」 診察室で向かい合うディミトリと鏑木医師。いっその事自分がタダヤスとは別人だと告白しようかと思ったが辞めた。 別人だと証明できないし、今度は違う病気だと言われそうな気がしたからだ。「頭痛は今回が初めてなのかな?」「酷いのは今回が初めてです」「酷い?」「ええ…… 軽い頭痛でしたら時々有りました」「そうですか……」「はい」「で、CTスキャンの結果を見ると、脳が腫れている感じだね……」「え?」 ディミトリはパソコンのモニターに映る脳の断面図を見せられたがよく分からなかったようだ。 医学知識が無いのだから無理もない。「んー、寝すぎた時なんかに頭痛がしたりしますよね?」「はい……」「それと似たような症状に見受けられますね」 勿論、鏑木医師も分かっていることだ。なので、分かりやすい例え話を出してきた。 彼は患者からの信頼が厚い医師と聞いている。症例を分かりやすく説明できるからだ。 これが大学出たての奴や気難しい医師だと、専門用語の羅列で意味不明な説明になってしまう。 その辺が患者の側に立つ医師との違いなのだろう。「じゃあ、長時間寝た事が原因でしょうか?」「
祖母はディミトリがトレーニング以外の時間を、ネットに張り付くようにしている現状を嘆いた。 食事中ですらスマートフォンを操作しながら何かの記事を読んでいるのだ。 ある時、後ろからそっと覗くと外国語の記事を読んでいる風だった。 もっとも、彼女にはどこの国の言葉なのか分からなかったようだ。「……」「彼は外国語を読めてるのでしょうかね?」 医師は外国の記事ばかりの所で尋ねてみた。 何処の国の記事を読んでいたのだろうかと思ったのだ。「どうでしょうか…… タダヤスが外国語に接する機会は無かったと思います」 祖母は読めているかも知れないとは思っていた。記事のスクロールする速度が遅いからだ。「何というか……」 これが写真などの画像に興味があるのなら、もっとスクロールする速度が早い気がするからだ。 日本と違って規制の無い外国のムニャムニャ画像は、お年頃の男子にとっては人気の的だ。 ある程度は仕方が無いと思う。 だが、ニュース記事らしきページを、食い入るように読んでるのは誰だろうと思ってしまうのだ。「何だか…… 私が知っている孫とは違う人になったみたいで怖いんですよ……」 祖母は日頃感じていることを医師に告げてみた。 後、夜中に洗面所の鏡をジーッと見つめているのも不気味に感じていた。「まあ、事故の影響だと思いますよ。 もう少し様子を見てみましょう」「はい……」 鏑木医師はそう言って慰めた。重症を負った患者の性格が変わるのはよく有ることなのだ。 粗暴な振る舞いで鼻つまみ者だった人物が、瀕死の重傷を負った後に温厚な性格になるなどだ。 人というのは生命の危機に接すると、色々と変化してしまうものらしい。「良く睡眠が取れていないようですから、お薬を出しておきますね」 鏑木医師はそう言ってニッコリと笑った。「はい。 お願いします」 祖母は薬と聞いて何だか嬉しそうに微笑んでいた。老人は薬を処方されるのが大好きなのだ。 飲んでいると自分が病気になっていると実感できるせいらしい。 それは生きている証でもあるからだ。 もっとも、この場合はディミトリへの薬であるが、性格が変わったのは病気のせいだと思い込めるからであろう。「それでは、次の検診は必ず来るようにタダヤス君に伝えてくださいね」 鏑木医師は祖母にそう告げた。 ただの頭痛だけでは入院は
自室。 ディミトリは早々と部屋の明かりを消してベッドの中にいた。遅くまで起きていると祖母が心配してしまうのだ。 彼は祖母に心配掛けるのはイヤなのでベッドに入って寝たフリをしていた。意識は他人とはいえ、自分の祖母に何となく似ている彼女を嫌いになれないでいる。(別に善人を気取るつもりは無いがな……) 天井に張られたポスターを見ながらフフフッと笑った。(恐らくはタダヤスの記憶が混じっているんだろうなあ……) ささやかだが他人を思いやるなどと考えたことが無いディミトリはそう考えた。(まあ、只のクズ野郎であるのは変わらないがな……) そう考えて自分の手を見た。見慣れたゴツゴツとした兵士の手ではなく、スラリとした如何にも十代の少年の手だ。(さて、これからどうしたもんだか……) 取り敢えず自分の身体に還ることは決めている。そのための手段を講じなければならない。 ディミトリが最後に覚えているのはシリアのダマスカス郊外の工場だ。まず、そこに行かなければ始まらないと考えていた。(そのためには金がいるんだよな……)(金が欲しいがどうやれば良いのかが分からん) 仕事をしようにもタダヤスは義務教育が必要な年齢だ。雇ってくれる所など無い。(銀行でも襲うか? いや、警備システムを探り出す手段も伝手も無いしな)(現金輸送車…… 同じことか……) ディミトリはベッドの中で身体の向きをゴロゴロと変えながら考えていた。(んーーーーーー……)(そもそも武器を手に入れたいが手段が分からん……) ディミトリは考えがまとまらないでいた。自分の住んでいた街では、街のゴロツキを手懐ければチープな銃であれば手に入る。 もう少し金回りが良ければ軍の正規銃ですら手に入ったものだ。 ところが、この国では銀行にすら護身用の銃は無いときた。(この国の人たちは、どうやって自分の身を守っているんだろう……) この国に住んでみて分かったのは、自分の身を護ってくれるのは他人だと信じ込んでいることだ。 その為なのか護身用の武器などは表立って売られていない。マニアなどが利用する店などで護身用と称する玩具だけだ。(そういえば…… 夜中に女の子が一人で歩いていたな……) 眠れない夜中になんとなく星を見ている事がある。 そんな時に、明らかに若い女性がトコトコと歩いているの見て驚愕したもの
何日か前の新聞報道で、自殺志願者を次々と殺した男の話を報道していたのを思い出した。 だが、報道はいつの間にか立ち消えた。 次は街なかで包丁を持って歩行者を次々と刺殺した男の話も途中で立ち消えた。 被害者なら氏名まで公表されるのに、この件では犯人の名前どころか年格好まで報道されなかった。 恣意的な報道規制が働くのだ。 この国の自称マスコミは、針小棒大で無責任な報道をするのをディミトリはまだ知らない。 彼らはニュースが大きく取り上げられれば良いだけだ。なので、報道内容に質は求めていない。 自分たちの発言に責任を持たないので、いい加減な仕事で構わないのだ。どうせ、国民もそんな事は求めていない。 身の丈に合った『知る権利』で満足しているらしい。知りたくない情報は遮断してしまう事で足りているのだ。(まあ、偉そうにふんぞり返っているのはロクデナシと決まっているがな) そう考えて、日本も自分が関わった国々と変わらず、クソッタレが牛耳っていることに安心した。 悪事を働いても平気でいられるからだ。(日本で銃を手に入れるにはどうすれば良いんだろうか……) ネットで色々と調べてみると、日本では銃などを普通の市民が購入することは出来ないのだそうだ。 ディミトリは日本の裏社会には何もコネが無いのだ。これではどうにもならない。(これがシリアやロシアなら軍上がりの武器屋から買えるんだがな……) だが、直ぐに考えを追い出した。無いものねだりしても仕方無いからだ。 ある程度の金があれば密輸する手立てもあるが、非常に高額になるのは目に見えている。(取り敢えずは自分で工夫して武器を仕立てるか……) 手元にある材料で武器を作った事はある。 戦闘地域にいると物流が当てにならないのだ。だから、手短な日用品で武器を作る訓練も受けたことがあった。 訓練と言っても元スペツナズの隊員達から簡単なレクチャーを受けただけだ。(後、訓練内容もどうにかしないと……) 日頃の運動のおかげで基礎的な体力は付いたと思う。次は実践的な訓練メニューを熟したいと考えた。(人目につかない空き家を利用するか……) 朝晩のランニングで適当な家に目処は付けていた。後はメニューと装備を用意するだけだ。 次は移動手段の確保だ。しかし、日本では車を運転できるのは十八歳以上であるらしい。それは四年
自宅。 ディミトリが早朝のランニングを終え帰宅すると居間で何やら話し声が聞こえてきた。「?」 彼が居間を覗くと祖母が電話口に向かって話し込んでいた。「まあ、敏行がご迷惑を……」 『敏行』というのはタダヤスの父親。相手は父親の元部下からのようだ。 ディミトリはシャワーを浴びるふりをしながら洗面所に向かい、そのまま廊下で会話を盗み聞きしていた。「それで如何ほどお金を借りていたんでしょうか?」 何でも金を貸していたので返してほしいという内容のようだ。(ん?) ここで、不思議に思った。既に葬式も終わってから日にちが経っている点だ。 こういった借金というのは、四十九日が過ぎた辺りで整理するものだと聞いていたからだ。 タダヤスの場合は父親の家のローンなどを弁護士が処理したと聞いている。(あの時の弁護士に任せればいいのに……) その事を思い出し祖母に忠告しようかと考えた。「はあ…… それぐらいの金額でしたら用立て出来ますが……」 どうやら、金額も数万円という少額のようだった。彼女は支払う気でいるようだ。「はい。 住所は……」 祖母は電話の相手に住所を教えてしまっていた。(あああ~……) 何とも無防備な人だ。タダヤスの父親の元部下という言葉を信じ込んでいるようだった。 相手は直接受け取りに来る様子だ。(いやいや…… 本物かどうかの確認が取れてないだろう……) そこでディミトリは祖母に尋ねてみた。「ねえ、何となく聞いてたけど…… 父さんは本当に金を借りてたの?」「あらあら、聞いてたのかい?」「あれだけ大きい声なら聞こえてしまうよ」「借用書もあるって言うからねぇ……」 世の中には、故人の死につけこみ、ありもしない借金をでっちあげて返済を求めて来る奴がいる。 今回も『少しでも貰えたら儲けもの』程度の考えで、平然と詐欺まがいの請求をしてくる輩が現れても不思議では無いのだ。 たとえ借用証書を目の前に突き出されたとしても、偽造された可能性を考えるものであろう。 だが、人の良いタダヤスの祖母は信じてしまっているようだ。 何でもタダヤスの父親の様子を細かく教えてくれたのだそうだ。 小一時間もたった頃、一人の男が訪ねてきた。名前は水野と名乗った。「どうも、初めまして…… 水野と申します」 そう言ってから一枚の名刺を渡してきた。
祈りが終わったのか水野は祖母の方に向き直り、背広の内ポケットから紙を一枚取り出した。「此方が借用書になります……」 出された紙はA4くらいの紙で金額と名前が入っていた。住所は前に住んでいた場所だ。 借用書の項目には出張代金の立替分と書かれていた。 だが、詳しい内容は書かれていない。パソコンで作られたものだろう。 「はい、息子の字です……」 祖母は長いこと名前を見つめていた。故人の母親がそういうのだから間違いは無いのだろう。 ディミトリには区別が付かなかった。元々知らなかったので無理もない。 だが、直筆であるとは言い切れないと考えていた。元の筆跡を読み込んで貼り付け編集が出来るからだ。 祖母は、暫く見つめた後に仏壇の引き出しから、現金の入った封筒を取り出し水野に渡した。 金額は予め聞いていた金額と心付けが入っているそうだ。「はい、確かに受け取りました…… では、借用書はお返しいたします」 中身を確認した水野は、丁寧に頭を下げ借用書を祖母に渡した。「あの…… 息子は他にも借金をしていたのでしょうか?」 祖母は気になるところを聞いてみた。何だか自分が知らない借金が在りそうだからだ。 実際、故人の隠れた借金が見つかることは良く在る話だ。 人間というのは自分の借金に負い目を感じてしまう。なので、人には中々相談しないものだ。 たとえ相談しても、素人ではどうにも成らない段階に成っていることが多い。もちろん、家族にもどうにも出来ない。 返済不可能な借金を抱えて自殺してしまうのもこういうタイプの人間だ。 だから、頭の良い貸主は遺族が遺産の相続を行った後で、借金の返済を遺族に求めるのだそうだ。 一度遺産相続をしてしまうと相続放棄が出来なくなるからだ。 他にも故人が連帯保証人になっているケースもある。保証人も相続対象になってしまうので注意が必要だ。 これの場合は更に悲惨で、借り主では無く連帯保証人に請求出来てしまうのだ。 何しろ遺産相続で金を確実に持っている。貸主としては確実に金を回収したいので持っている方に請求するものだ。 支払いの請求がなされた場合は返済しなければならない。借り主が返さなくても良い。それが連帯保証の怖さだ。 親兄弟といえども連帯保証人になるなと言われる所以である。「ああ…… 詳しくは分からないのですが、エフナント
自宅にて。 ディミトリは剣崎と連絡を取る事にした。「むぅーー……」 ディミトリは机の引き出しに放り込んでおいたクシャクシャにした名刺を広げながら唸っていた。 あの男から有利な条件を引き出す交渉方法を考えていたのだ。(ヤツは俺がディミトリだと知っているんだよな……) それどころか邪魔者を次々と処分したのも知っているはずだ。なのに、逮捕して立件しようとしないのが不気味だった。(金にも興味無さそうだし……) 金に無頓着な人種もいるが稀有な存在だ。自分の身の回りには意地汚いのしか寄って来ないので都市伝説ではないかと疑っているぐらいだ。「ふぅ……」 ディミトリは考えるのを諦めて、携帯電話に電話番号を入力した。 剣崎は電話が来ることを予見していたのか、直ぐに電話に出たきた。『やあ、そろそろ電話が来る頃だと思っていたよ』 相変わらずの鼻で括ったような物言いだった。ディミトリは携帯電話から耳を離し、無言で携帯電話を睨みつけた。「ああ、そうかい。 少し逢って話をしたいんだが……」 気を取り直したディミトリは挨拶もせずに用件を伝えた。『別に構わないよ。 何処が良いんだね?』「デカントマートの駐車場はどうだい?」『ふむ。 いざと成れば手軽に行方を眩ませることが出来るナイスな選択だね』「人目が有った方がお互い安全だろ?」『アオイくんを迎えにやるよ』「分かった」『アオイくんは私の命令で見張りに付いていたんだ。 殺さんでくれたまえ』「分かったよ…… 家の前で待っている」 自宅の前で待っていると、車でアオイが迎えに来た。 ディミトリは後部座席に座り、自分の鞄から反射フィルムを取り出した。これは窓に貼るだけでマジックミラーのようになるものだ。 貼っておけば狙撃者
「この後。 ホームセンターに行ってくれ」「良いですよ。 何か買うんですか?」「灯油を入れるポリタンクを買いたいんだよ」「分かりました」 ホームセンターに行き灯油用ポリタンクを十個程手に入れた。それと一緒にオリーブグリーンのビニールシートも購入した。 それと血痕を掃除する洗剤なども買った。「何に使うんですか?」「灯油を入れるポリタンクって言ったろ……」 ディミトリたちは、そのまま複数の給油所に行き、次々と灯油を購入していった。 一箇所だと怪しまれるのでポリタンクの数分だけ給油所を回っていった。「同じとこで入れれば時間の節約になるでしょう」「一箇所で大量に灯油を購入すると怪しまれるだろ?」「そう言えばそうですね……」「何事も慎重に行動するんだよ」「……」「アンタは何も考えずに行動するから面倒事になっちまうんだ」「はい……」 田口兄は訳も分からずに手伝っていた。ディミトリは買って来た灯油はヘリコプターに積み込む予定だ。 あたり前のことだがヘリコプターを飛ばすには燃料が要る。 本来ならジェット燃料がほしかったが、個人でジェット燃料など購入することは結構難しい。一般的に使われる類いの燃料では無いので売って貰えないのだ。 そこで代替燃料として灯油に目を付けたのであった。本当は軽油が良かったが、ポリタンクで軽油を購入するのは目立つのでやめた。 基本的にジェット燃料と灯油や軽油の成分は一緒だ。違うのは含水率と添加剤の有無だ。 もちろん、正規の物では無いのでエンジンが駄目になってしまう可能性が高い。それでも手に入れておく必要があった。(剣崎の野郎と会う必要が有るからな……) 何故ヘリコプターの燃料を心配しているかと言うと、近い内に公安警察の剣崎に会う必要が有るからだった。 相手の考えが読めないので、脱出手段の一
大通りの路上。 田口兄が車でやってきた。一人のようだ。「よお……」「どうも、迷惑掛けてすいません……」 ディミトリは憮然とした表情で挨拶をした。 田口兄は愛想笑いを浮かべながら、自分の問題を解決してくれたディミトリに感謝を口にしていた。「……」 ディミトリは田口兄の挨拶を無視して車に乗り込んでいった。「俺の家に帰る前に寄り道してくれ」「はい」 田口兄は素直に返事していた。年下にアレコレ指図されるのは気に入らないが、相手がディミトリでは聞かない訳にはいかない。 何より怒らせて得を得る相手では無いのを知っているからだ。「何処に向かえば良いですか?」「これから言う住所に行ってくれ……」 そこはチャイカたちが使っていた産業廃棄物処分場だ。 確認はしてないがそこにジャンの所からかっぱらったヘリが或るはず。その様子を確認したかったのだ。 処分場に向かう間も無言で考え事をしていた。田口兄はアレコレと他愛もない話をしているがディミトリに無視されていた。 やがて、目的の場所に到着する。山間にある場所なので人気など無い。道路脇に唐突に塀が有るだけなので街灯も何も無かった。 産業廃棄物処分場の入り口には南京錠が取り付けられている。ディミトリは中の様子を伺うが人の気配は無いようだった。「なあ…… ワイヤーカッターって積んである?」 きっと泥棒の道具として、車に積んでいる可能性が高いと考えていた。「ありますよ。 コイツを壊すんですか?」「やってくれ」 田口兄はディミトリに初めてお願いされて、喜んでワイヤーカッターで南京錠を壊してくれた。 後で違う奴に付け替えてしまえば多分大丈夫と考えていた。 中に入るとヘリコプターは直ぐに分かった。ヘリコプターは処分場の中程にある広場のようになった真ん中に鎮
『はい……』「帰りの足が無くて往生してるんだ」『はい……』 ディミトリは電柱に貼られている住所を読み上げた。田口兄は十五分程でやってこれると言っていた。『あの連中は何か言ってましたか?』「ああ、鞄を返せとは言っていたが、それは気にしなくて良い」『どういう事ですか?』「話し合いの最中にバックに居る奴が出て来たんだよ」『ヤクザですか?』「そうだ」『……』「ソイツの組織と別件で前に揉めた事があってな……」『あ…… 何となく分かりました……』「ああ、かなり手痛い目に合わせてやったからな」『……』 ディミトリの言う手痛い目が何なのか察したのか田口兄は黙ってしまった。「俺の事を知った以上は関わり合いになりたいとは思わないだろうよ」『い、今から迎えに行きます』 田口兄はそう言うと電話を切ってしまった。 大通りに出たディミトリは、道路にあるガードレールに軽く腰を載せていた。考え事があるからだ。 帰宅の心配は無くなった。だが、違う心配事もある。(本当に諦めたかどうかを確認しないとな……) 追って来ない所を見ると諦めた可能性が高い。だが、助けを呼んでいる可能性もあるのだ。確かめないと後々面倒になる。 その方法を考えていた。(家に帰って銃を持って遊びに来るか…… いや、まてよ……) そんな物騒な事を考えていると、違う方法で確認出来る可能性に気が付いた。(剣崎が灰色狼に内通者を持っているかもしれん……) ディミトリの見立てでは剣崎は灰色狼に内通者を作っていたフシがある。 灰色狼は日本に外国製の麻薬を捌く為
隣町の路上。 店を出たディミトリは、大通りの方に向かって歩いていった。なるべく人通りが或る方に出たかったからだ。 彼らが追撃してくる可能性を考えての事だった。相手が戦意を失っている事はディミトリは知らなかった。だから、追撃の心配は要らなかった。 だが、違う問題に直面していた。(う~ん、どうやって家に帰ろうか……) 学校帰りに大串の家に寄っただけなので、手持ちの金は硬貨ぐらいしか持っていない。ここからだとバスを乗り継がないと帰れないので心許ないのだ。(迎えに来てもらうか……) そう考えたディミトリは、歩きながら大串に電話を掛けた。 まさか、バーベキューの串で車を乗っ取るわけにもいかないからだ。「そこに田口はまだ居るのか?」『ああ、どうした?』「田口の兄貴に俺に電話を掛けるように伝えてくれ」『構わないけど……』 大串が言い淀んでいた。気がかかりな事があるのは直ぐに察しが付いた。「田口の兄貴を付け回していた車の事なら、もう大丈夫だと言えば良い」『え!』「お前の家を出た所で、田口の兄貴を付け回してた連中に捕まっちまったんだよ」『お、俺らは関係ないぞ?』前回、騙して薬の売人に引き合わした事を思い出したのだろう。慌てた素振りで言い訳を電話口で喚いている。「ああ、分かってる。 連中もそう言っていた」『……』「きっと、見た目が大人しそうだから言うことを聞くとでも思ったんだろ」『無事なのか?』「俺が誰かに負けた所を見たことがあるのか?」『いや…… 相手……』「大丈夫。 紳士的に話し合いをしただけだから」『でも、それって……』「大丈夫。 今回は殺していない……」『&helli
「この通りだ……」 ワンは銃を机の上に置いた。そして、両手を開いて見せて来た。「なら、その銃を寄越せ……」 ワンは銃から弾倉を抜いて床に置き、足先で滑らせるように蹴ってきた。ディミトリはそれを靴で止めた。「アンタに弾の入った銃を渡すと皆殺しにするだろ?」(ほぉ、馬鹿じゃ無いんだ……) 彼の言う通り、銃を手にしたら全員を皆殺しにするつもりだった。 ワンはそれなりに修羅場をくぐっているようだ。 ディミトリは滑ってきた銃をソファーの下に蹴り込んだ。これで直ぐには銃を取り出せなくなるはずだ。「鶴ケ崎先生はどうなったんだ?」「おたくのボスに殺られちまったよ」「……」 どうやら、灰色狼は組織だって動いて無い様だ。誰が無事なのかが分かっていないようだ。「それでボスのジャンはどうなったんだ?」「さあね。 ヘリにしがみ付いていたのは知ってるが着陸した時には居なかった」「殺したのか?」「知らんよ。 東京湾を泳いでいるんじゃねぇか?」(ヘリのローターで二つに裂かれて死んだとは言えないわな……) 手下たちは額に汗が浮かび始めた。さっきまで脅しまくっていた小僧がとんでも無い奴だと理解しはじめたのだろう。「ロシア人がアンタを探していたぞ……」「ああ、奴の手下を皆殺しにしてやったからな…… また、来れば丁寧に歓迎してやるさ」 ディミトリは不敵な笑みを浮かべた。 ワンは少し肩をすぼめただけだった。どうやらチャイカと自分の関係を知らないらしい。「俺たちは金儲けがしたいだけだ。 アンタみたいに戦闘を楽しんだりはしないんだよ」「……」 やはり色々と誤解されているようだ。自分としては降りかかる火の粉を振り払っているだけなのだ。結果的に
ナイトクラブの事務所。 ディミトリは弱ってしまった。部屋に入ってきた男はジャンの部下だったのだ。そして、この連中はコイツの手下なのだろう。 折角、滞りなく帰宅できるはずだったのに厄介な事になりそうだ。(参ったな……) ディミトリは顔を伏せたが少し遅かったようだ。男と目が合った気がしたのだ。「お前……」 入ってきた男が何かを言いかけた。その瞬間にディミトリは、右袖に仕込んでおいたバーベキューに使う金串を、手の中に滑り出させた。こんな物しか持ってない。下手に武器を持ち歩くのは自制しているのだ。 ディミトリは車で送ってくれると言っていた男の髪の毛を引っ張って喉にバーベキューの串を押し当てる。 これならパッと見はナイフに見えるはず。牽制ぐらいにはなると踏んでいるのだ。 いきなり後頭部を引っ張られてしまった相手は身動きが出来なくなってしまったようだ。何より喉元に何かを突きつけられている。 兄貴と呼ばれた男と部屋に居た残りの男たちも動きを止めてしまった。「動くな……」 ディミトリが低い声で言った。優等生君の豹変ぶりに周りの男たちは呆気に取られてしまっている。 しかし、入ってきた男は懐から銃を取り出して身構えていた。ディミトリの動きに反応したようだ。「え? 兄貴の知り合いですか?」「何だコイツ……」 部屋に居た男たちはいきなりの展開に戸惑いつつ兄貴分の方を見た。「ちょ、待ってくれ!」 だが、兄貴と呼ばれた男が意外な事を言い出した。(ん? 普通はナイフを捨てろだろ……) ディミトリは妙な事を言い出した男に怪訝な表情を浮かべてしまった。「俺は王巍(ワンウェイ)だ。 日本では玉川一郎(たまがわいちろう)って名乗っているけどな……」「ああ、ジャンの手下だろ…… 倉庫で
「田口君のお兄さんが鞄を持って行ったって何で解ったんですか?」 大串の家で聞いた限りでは誰にも見られていないはずだ。だが、現に田口の家ばかりか交友関係まで把握しているのが不思議だったのだ。「防犯カメラに田口が鞄を弄っている様子が映ってるんだな」 一枚の印刷された画像を見せられた。防犯カメラと言うよりはドライブレコーダーに録画されていたらしい画像だ。 黒い革鞄と田口兄が写っている。それと車もだ。ナンバープレートも写っていた。(泥か何かで隠しておけよ……) 泥棒は車で移動する時にはワザと泥などでナンバープレートを隠しておく。防犯カメラに備えるためだ。「鞄を返せと言えば良いだけだ」「鞄の中身は何なの?」 何も知らないふりをして質問してみた。「中身はお前の知ったこっちゃない」 男はディミトリをギロリと睨みつけながら言った。「まあ、そんなに脅すなよ。 中身はそば粉と子供玩具と湧き水を容れたボトルさ」「?」 子供騙しのような嘘だとディミトリは思った。「この写真を見せながら言えよ?」 ボス格の男はそう言うと何枚かの写真を投げて寄越した。 写真には田口と田口兄。それと一組の夫婦らしき男女の写真と、小学生くらいの女の子の写真があった。田口の家族であろう。 最後は故買屋の防犯カメラ映像だ。鞄の処理の前に銅線を売りに行ったらしい。 普通の窃盗犯であれば仕事をした後は暫く鳴りを潜めるものだ。そうしないと探しに来る者がいるかも知れないのだ。(ええーーーー…… 素人かよ……) 余りの幼稚な行動にめまいがしてしまった。「そば粉なら、また買えば良いんじゃないですか?」 ディミトリは話の流れを変えようと言い募った。 窃盗した後に迂闊な行動をする馬鹿と、見張りも立てずに取引物をほったらかしにする素人など相手にしたくなかったのだ。「そば粉は別に良い。 ボトルを返せと言えば良い……」 ここで、ピンと来るモノがあった。(そば粉だと言う話は本当だろう……) 見つかった時の言い訳用だ。拳銃が玩具だというのも本当だろう。万が一、職務質問で見つかっても警察が勘違いだと思わせることが出来るはずだ。 ボス格の男が色々と蕎麦に関してのウンチクを並べているがディミトリの耳に入って来なかった。(だが、ボトルの中身は…… 麻薬リキッドだな……) ディミトリはボトル
大串の家の近所。「いいえ、別に友達ではありません……」 ディミトリは警戒して言っているのでは無い。本当に友人だとは思って居ないのだ。「でも、田口のツレの家から出てきたじゃねぇか」 男の一人が大串の家を顎で示しながら言った。 これで男たちが田口を尾行して、彼が大串の家を訪ねるのを見ていたと推測が出来た。「学校でクラスが同じなだけです……」 ちょっと、面倒事になりそうな予感がし始め、ディミトリは警戒感を顕にしていた。「ちょっと、オマエに頼みたいことが有るんだ」 男が手で合図をすると車が一台やって来た。やって来たのは白の国産車だ。 大串たちの話ではグレーのベンツだったはずだが違っていた。「ちょっと、付き合ってくれ」 開いた後部ドアを指差した。「クラスの連絡事項を伝えに来ただけで、僕は無関係ですよ?」 妙齢のお姉さんであれば喜んで乗るのが、おっさんに誘われて乗るのは御免こうむるとディミトリは思った。「田口に届け物を渡して欲しいんだよ」「それなら、おじさんたちが直接渡したらどうですか?」 ディミトリは尚もゴネながら逃げ出す方法を考えていた。「良いから。 乗れって言ってんだろ?」 ディミトリを知らないおっさんは頭を小突いた。瞬間。頭に血が上り始めた。(くっ……) だが、人通りもあって我慢する事にしたようだ。今はまだディミトリは冷静なのだ。ここで、喧嘩沙汰を起こすと警察が呼ばれてしまう。それは無用な軋轢を起こしてしまう。 それに相手は中年太りのおっさんが三人。ディミトリの敵では無い。チャンスはあると思い直したのだった。(周りに人の目が無ければ、コイツを殺せたの……) ディミトリは残念に思ったのだった。 こうして、ディミトリは大串の家から出てきた所を拉致されてしまった。 連れて行かれたのは中途半端な繁華街という感じの商店街。端っこにあるナイトクラブのような地下の店に連れ込まれた。 まだ、開店前らしく人気は無かった。その店の奥にある事務所に連れ込まれた時に、白い粉やら銃やらをこれ見よがしに置かれているのを見かけた。(ハッタリかな……) まるで無関係の奴に見せても益が無いはずだ。ならば、ハッタリを噛ませて言うことを効かせようという魂胆であろう。 ヤクザがやたら大声で威嚇するのに似ていた。「よお、坊主…… 済まないな……」